2010年3月15日月曜日

時代を駆ける:土井香苗/4 検事の「女性枠」反対に決起

この記事を読んでいると、つい10年くらい前まで、検事採用には暗黙の女性枠があったようですね。
結局、この女性の働きかけで、女性の採用は増えたようです。
おかしいと疑問に思いつつも、あることを変えるのには、ものすごいエネルギーがいりますよね。
自分なんかは、仕方ないか…とつい思ってしまうほうなので、この女性のようにできることは羨ましくもあり、感心してしまいます。




時代を駆ける:土井香苗/4 検事の「女性枠」反対に決起
(‎2010年3月7日‎ 毎日新聞)


 ◇KANAE DOI

 <司法試験合格者は司法修習生を経て裁判官・検察官・弁護士などの進路を決める。そのとき検察官採用の「女性枠」があると知り、黙っていられなかった>

 99年春から第53期修習生として、1年半の司法研修を受けました。最初は検事にも興味がありました。人権行政をつかさどるのは法務省人権擁護局の検事です。難民問題に興味があり、スウェーデンで人権救済機関の調査も経験していました。
 しかし女性の検事採用は、(70人弱の)各クラスから1人ずつに限る暗黙の「女性枠」があることを知りました。「1人だから。決まっているから」などと教官が普通に話していました。あまりに「当然だ」と提示されると、間違いに気付きません。やがて真っ赤な女性差別だと思うようになりました。
 仲間10人ぐらいで、タイ料理屋でお酒も飲んでいる時に、「おかしい」と盛り上がってしまいました。私たちが行動したら無くなる、と思いました。その場で「検察官任官における『女性枠』を考える修習生の会」を結成。チラシを作り、朝、修習生800人の机に置きました。採用率が低いことも調べました。

 <マスコミにも出て不当性を訴えた>

 改善を申し入れる段になり、毎晩開いていた会議が紛糾。「後からにらまれる」と。先輩たちからも心配されました。その時、仲間の男1人が「正しいことを言うのだから、おれは構わん」と言ってくれ、研修所の所長に1人で申し入れてくれました。かっこいいですよね。私と一緒に毎日新聞、朝日新聞やNEWS23にも出ました。「インパクトがあるから」と名前も顔も出しました。
 法務省は「女性枠」の存在を一度も認めていませんが、結局、女性の採用は増えました。
 学んだことは三つ。コソコソでなく大っぴらにやれば、つぶされない。運動を作ること。草の根運動のように世論を研修所で作りました。なんでも使う。交渉時も新聞記者に取材をお願いしました。弁護士会に依頼したら、実態調査報告書を出してくれました。

 <カンボジアの司法支援に加わった上柳敏郎弁護士や木村晋介弁護士、憲法を重視する司法試験指導で知られる伊藤真弁護士、刑事弁護の寺井一弘弁護士らと出会い、「弁護士」という職業を選択することになった。00年10月に登録した>

 したくないのに勉強していた期間が長かった。司法試験合格後の勉強が初めて充実していました。
 エリトリアでの司法ボランティアの時は、多くの先輩弁護士にお世話になりました。上柳弁護士らのカンボジア支援活動を知り、「こういうこともできるのか」と学びました。伊藤先生が設立した司法試験受験予備校「伊藤塾」で学んだ縁で、日弁連の米国調査団に加えてもらいました。国選弁護の調査で、団長は寺井弁護士でした。オウム真理教の麻原彰晃(本名・松本智津夫)被告を担当する国選弁護人を調整された方で、世論は死刑を求め、国選弁護人にも脅迫が届いたようです。「最悪」とされる人物でも弁護しなければ、司法制度は成り立ちません。「被疑者弁護という制度を守るために、命がけでも闘う」と、すごい迫力で語られていました。当初は検事も選択肢にありましたが、熱い人たちとの出会いを通じ、「弁護士、いいじゃない」と気持ちが固まりました。

 <夫は「女性枠」問題で共に闘った男性>

 司法修習が終わった2、3カ月後に私から「結婚してください」と頭を下げました。初めは「レーダー外(眼中にない)」だったのに。夫も弁護士で、「日の丸・君が代問題」での処分撤回や刑事、労働問題などを担当しています。人権ゴリゴリで、家でも「他に話はないの?」みたいな感じ。女が飯を作るという発想もない。自宅を新築した際に「台所は要らない」と言い出す始末。さすがに小さい台所は作り、食事も時々作ります。